白藤らうね「ヰタ・セクスアリスを読んで」

読書感想文企画が終わりました。みなさんご提出ありがとうございました。
発表配信内で読み上げた白藤らうねの読書感想文を置いておきます。
良ければ読んでみてください。

ヰタ・セクスアリス 森鴎外(青空文庫様のページ)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/695_22806.html
「ヰタ・セクスアリス」を読んで
呉服屋「白藤」次期当主 白藤らうね

 森鴎外の小説と言えば私は『舞姫』を想起する。しかし高校時代に現代文の授業で読んだそれは、『舞姫』、森鴎外、そしてエリスと今では点々とした記憶でしかない。今回私の読んだ『ヰタ・セクスアリス』は『舞姫』から20年弱の空けての作品である。大胆な性欲描写から、これが掲載されていた文芸誌が発売禁止となったらしい。現代の日本では性的なことはしないが吉という風潮がないでもない。今回読書感想文を書くにあたり、森鷗外の作品では異色とされるこの作品に、私は心を躍らせつつも、配信で発表するということもあり一抹の不安を抱きながらページをめくる。初めに言っておくが、心躍っているのは大胆な性欲描写があるからではないためくれぐれも勘違いの無いように。

 この本は主人公である金井湛(かねいしずか)という哲学者が、今年高等学校を卒業する自分の息子に「性欲的教育」をしなければならない、となった際どう云うのが良いのか。というところから、金井君が自らの性欲的生活の歴史を書く話である。現在の金井君が「性欲的生活の歴史」書こうかなと思うところから始まり、この本の大半は金井君が書いた「ヰタ・セクスアリス(性欲的生活)」が占めるそして、最後にもう一度現代の金井君の描写の三段階となっている。

 私は自分の子というのを持っていないため幸いかまだこの悩みを持ったことはないが、仮に自分が息子に性欲的教育、(現在で言う性教育と同義だろうか)をするとして、まず間違いなく言えるのは自分の性欲的生活の歴史を使って教育をしようとは思わないだろう、ということである。作中、金井君は男と女とが異様な姿勢をしている本を見つけたり、寄席で噺家が吉原に行くという話を聞いたりという描写があるが、もし似たようなことを自分の息子にするとなれば、小学生のころ下校中にあぜ道でズバ王を見つけたんだ。だとか、エンタの神様を見ていたらアンジャッシュのすれ違いコントが面白いぞ、なんて言えるはずがない。この違いは哲学の先生であるからか、はたまた本を読む際内容ではなく「作者がどういう心理的状態で書いているかという」ことを気にするような性格の違いからだろうか。

 前で触れたようなことを体験した金井君だが、
「自分が人間一般の心理的状態を外れて性欲に冷澹であるのではないか、特に frigiditas (フリジディタ   ス)とでも名づくべき異常な性癖を持って生れたのではあるまいかと思った。」
というほどには性欲がない。
自らの周りに軟派の者が多くいた生息子時代の金井君としては、性欲がないのはおかしいこととなっていたのではないか。高校を卒業しようという息子の性欲の有無はわからないが、性欲はあるものもない者もいるという性教育以前の多様性の話を用いることで説得力を上げようと考えたのではないか。自らの性欲的生活の歴史を書くという控えめに言っても黒歴史と表現できるような行為も、自らの羞恥心よりもこれからの未来がある自分の息子、及び今後の日本の発展を優先するといった考え方はまさしく哲学者である金井君らしさなのかもしれない。性教育という大変でありつつも重要なことに対し私自身はどのように向き合っていけるだろうか。私が金井君と同じように高校を卒業する息子を持ち、性について話さなければならない時が来るかもしれない。そのときは本書『ヰタ・セクスアリス』を読ませてみようか。少なくともその時はこの配信だけは見つからないようにしようと思う。

 『ヰタ・セクスアリス』は先でも述べた通り、哲学者である金井君が自らの性欲的生活の歴史を記す様子を描いた小説である。この本読んでいて初めに違和感を覚えたのは、この感想文でも何度も書いた「金井君」という表現である。主人公の金井湛を指す言葉は「金井君」「僕」そしてほかの登場人物が金井君を呼ぶ際の「先生」や「君」といったものがある。ほかの登場人物が呼ぶ際の代名詞等はいいとして、冒頭と末尾の「現代の金井湛」を指す際は「金井君」、金井君の書いた「ヰタ・セクスアリス」内では「僕」となっている。この「金井君」という表現は「現代の金井湛」は第三者目線、言い換えれば神の目線によって書かれていることを意味する。つまり著者である「森鴎外」が「金井君っていう人が居てね…」と説明しているような構造になっている。メインである「ヰタ・セクスアリス」そしてその「ヰタ・セクスアリスを書く金井君」さらにそのを書く「ヰタ・セクスアリスを書く金井君」を書く森鷗外。そしてそれを読む私は、漫画を描く漫画「バクマン。」のような入れ子構造をこのヰタ・セクスアリスに感じた。この構造もまた、ヰタ・セクスアリスの楽しめる部分の一つではないかと感じた。今後ヰタ・セクスアリスを読む人にはここも楽しんでもらいたいと読者ながらに感じた。「ヰタ・セクスアリスを書く金井君」を書く森鷗外という、金井視点と森鷗外視点の二つを同時に楽しめるこれはもしかすると、実質的な親子丼なのかもしれない。

 作中冒頭で金井君はこんなことを思ったとある。
「一体性欲というものが人の生涯にどんな順序で発現して来て、人の生涯にどれだけ関係しているかということを徴すべき文献は甚だ少いようだ。」
「私がこの感想文の最後に親子丼という言葉を使ったこと」と、「私の性欲」とが関係があると結論付けられる論文は甚だ少いようだ―――。